14歳のインコがおしえてくれたこと

昨日インコがなくなって、旦那とインコのことを話してたら大学のことを思い出して懐かしくなりました。

14年って私が20歳の時に飼い始めたわけで、もはや成人してからずっと一緒だったんですよね。

というかインコがいなかったらアフィもきっとしてなかったと思います。

てことでめちゃ長いけど14年の思い出を書いておきます。幼少期の写真がなくて見づらくてすみません。

 

目次

黄色いインコ氏との出会いは2003年

2003年の春休み。当時、大学の動物関係の学科に入学して1年終わる頃でした。

教習所に通いながら春休みにインコを飼い始めたんですよね。あっインコ飼おうって。もともと手乗りインコを実家でも飼ってたからハードルは低くて、インコがいた方が楽しいだろうって単純な理由でした。

 

大学の脇にある個人経営のペットショップで購入。「青いのと黄色いの1羽ずつください」って言ったら後日1羽2000円で納品されたのがこのインコたち。

その直後に大学の講義で動物愛護法の講義があって、「大学の脇にあるあのペットショップは飼育環境が劣悪」と話題に挙げられていて、モロそこで買ったよwwwとか思った記憶があります。確かに店内の鳥かご、ウンティスピラミッドできてたわ(笑)あのペットショップ、今どうしてるんだろか。

幼少期は栄養失調で病弱だった

で、予想通り?栄養状態がよろしくない環境だったせいか、黄色い方のインコは飼い始めて早々に体に不調が。

足が動かなくなり翼が曲がって毛がバッチくなってしまいました。

小鳥の病院で「ビタミン不足だね」って言われたこの病弱な黄色いオスインコの名前が『まめ』です。

 

黄色いインコ『まめ』は病院でビタミン不足と診断された後も栄養が足りませんでした。

羽がカスカスになってシッポは抜けるわ、羽は汚いわでした。そしてビビリな性格が災いして青いインコ(姉・たま)にイジメられる羽目にも合い、幼少期は大変な日々を過ごしていました。

 

いじめられインコの転機(4歳の頃)

引きこもりの典型みたいなインコまめでしたが、彼にも鳥生の第一転機が訪れます。

友だちができました。

姉にいびられる生活だった黄色いインコ・まめですが、唯一の救いは彼が1歳の頃くらいにキョロちゃんというインコの友だちができたことです。キョロちゃんは全く人馴れしてないけどインコ的社交力抜群のインコだったので、引きこもり気味な彼にうまく合わせてくれました。これにより姉にいびられる生活の中でも彼は少しだけ精神の安定が図られたようです。

 

とはいえ、仲良くはないものの性格の違う3羽がワイワイやってる姿はなんだかんだ微笑ましい感じでした。

 

しかし彼らが4歳になった頃、青いインコのたまちゃんが病気で亡くなりました。姉の病死でとくに彼がしょんぼりすることはありませんでした。動物は素直だ。むしろいじめていた存在がいなくなったことで彼は精神的に解放され性格が一変。ビビリな性格から一転、外交的でやや強気な性格になりました。○○やってやるぜ、な感じのオラオラ系にw大学デビューかっ!

 

私との別居(6~8歳の頃)

実は姉インコたまちゃんが亡くなった後、調子に乗った私がオカメインコやらサザナミインコを飼い始めました。セキセイインコ3羽、オカメインコ2羽、サザナミインコ1羽。我が家は鳥だらけになって騒然となってしまいました。

 

このころ大学の卒業まであと1年半で、就活と資格試験のために勉強をしないといけない年にはいってきました。非常に飼い主都合で申し訳なかったのですが、あまりに鳥が多すぎて就活や勉強がしづらかったため、結局私の都合で資格試験の受験を機に実家に丸っと預けてしまいました。

 

余談ですが、勉強どころじゃないとうのは若干育児ノイローゼ的なところがありました。このインコがたくさんいた時代、オカメインコが甘えん坊過ぎて鳴き声がご近所迷惑じゃないかとか、いつも後追いされて困るとかでノイローゼになっていました。今思えばこれが育児ノイローゼだったかもしれないです(笑)いま子供が生まれて子育て中ですが、この時のおかげか今のところ育児ノイローゼになっていません。実

 

彼とは2年ほど別居しました。彼が6~8歳の時ですね。

 

 

再び同居(8歳の頃)

飼い主の私は北海道から1年で東京に戻ってきました。

ただ預けていた合計2年の間にオカメインコ、サザナミインコは亡くなりインコ友達のキョロちゃんとふたりになっていました。そして関東に戻って来て数ヶ月後、唯一の友達キョロちゃんも病気で亡くなってしまいました。

彼はボッチになりました。

彼が8歳の頃です

私はこれ以後関東にいる予定だったので再びインコ氏をひきとり、関東で同居することにしました。

 

2年の放置したことを彼は怒っていた

久々に実家に迎えに行ったとき、彼はちょースレた鋭い目つきをしていました。

もともと手乗りインコでしたが、カゴに手を入れたら手に穴が開くほど噛まれました。

めっちゃ怒ってました。怒るとマジガミしてくるのは昔からですが、とにかく本気で怒っていました。

放置したことを怒ってたようです。

 

この状態から仲直りするにはナウシカばりに噛まれることに耐える必要がありますが、めっちゃ痛かったです。

まあでも耐えたことで少し許してくれたみたいで、その後は徐々に仲直りをしました。

 

余生を過ごすつもりで同居を始めた

彼は既に8歳。インコ寿命は9歳なのでまあ生きても11歳くらいまでだろうと思っていました。

つまり1~2年でお別れ。

見た目もボロカス状態でとても健康的とはいえない感じでしたので、引き取るときもあと少しの余生くらい一緒に暮らすか、という軽い気持ちでした。まさかそれから5年も生きたんですね。

写真は引き取った直後、東京で撮った写真です。

 

引き取ったあとどんどん健康体になる

しかし彼は死ぬどころかそこからどんどん元気になっていきました。

確かに引き取ってから市販の栄養剤(カルビタ)をなるべくあげるようにしたり、一緒に遊んだりしていましたが・・・栄養剤のおかげなのかはたまた心の問題なのか彼に聞いてみないとわかりません。

 

見たこともないくらいツヤツヤになっていき、なんだか穏やかな性格になっていきました。この時既に10歳近くでしたが、彼の14年間のインコ生活で最もツヤッツヤになったのが東京で過ごした最期の5年だったと思います。

 

羽に模様が現れる

健康体になるというのは見た目の印象もそうですが、具体的に綺麗な羽が生えてくることでわかります。今まで薄い黄色で模様が少ないインコだった彼ですが、10年間見たことがなかった模様が顔周りの羽にあらあわれました。この模様、インコの原種に近い模様です。良ければ前の写真と見比べてください。

おそらく超健康体になって羽に模様が出てくるという事件がおこったんですね(笑)

 

君、羽に模様あったのね?

彼は精神的にも安定し、栄養も良くなり、この上なくハッピーな5年だったでしょう。

 

関東での晩年期(10~13歳)

彼を東京に引き取ってから、彼は5回ほど痩せて死にかけました。

でもそのたびに動物病院でもらった栄養剤を飲んで急場をしのぎ復活しまくりました。死ぬ死ぬ詐欺ですね。

鼻が膿んでもげたり、寒暖で体調を崩して体重が激減したり、下痢ピーしたり。

それでも彼はピンチを乗り越え、13歳を超えてもなお現役でした。

もともと自分の名前を言えた彼はいまだに人間のしゃべっている言葉の学習に興味があったし、最後の最後まで鼻がもげようと足が動かなくなろうとめげることはありませんでした。不自由でめげるのではなく、不自由な中でどうやったら快適に過ごせるか、それを模索し続けていました。

 

なにより、食欲があった。コレは生命として非常に重要なポイントです。

 

14歳の春、ひきつけと足が動かなくなる

4月の上旬、急にひきつけを起こして左半身が麻痺しもうだめかと思った事がありました。

が、翌日ケロッと治った事件がありました。あれは何だったのかわかりませんがもしかしたら予兆だったのかもしれません。

 

 

その1ヶ月後、再び右足をびっこするようになりました。

止まり木をつかめなくてしんどそうにしていますが、それでも定期的に下に降りてきてご飯を食べるのが日課でした。

止まり木をつかめなくて不安定なのでくちばしで支えているインコ氏。

でも下に降りて来てご飯をたべている。

最初は右足が動かなかったんですが、最終的に左足も動かなくなりました。それでも普通に下に滑り降りてきて遊んで上に帰る生活をしていました。

足が動かない以外は自在に飛んでパソコンの上に乗ったりしていました。

死ぬ1週間前までは上の止まり木で寝泊まりしていて、両足が動かないのにくちばしと羽でうまく降りて来て、そして器用に戻って行きました。

そんな片足でよくやるなと思って感心していましたが、日に日にスムーズにできるようになっていたのもものすごくびっくりしました。とにかく生きる活力がすごかった。

死ぬまで進化し続けるというのがまさに長寿の秘訣かもしれないですね。

 

さよならインコ氏

それまでなんだかよくわからなかったので栄養剤だけもらってきて上げていましたが、どうも痛風な気がしてきたのでついに病院に行きました。痛風でした。でも病院では餌を食べていたし、死ぬ間際も餌を食べていました。でも病院に行った翌日、急変してころっと行ってしまいました。

痛風は内蔵(肝臓)にも来るので、かなり代謝も厳しい状況になっていたのは事実です。よく頑張ったなと。

 

14年生きたインコに教えてもらったこと

「諦めなければなんでもできる」

コレにつきます。

もう年だからできないということもないし、体が不自由だからできないということもない。やる気さえあれば意外となんでもできちゃうんだぞ、というのが彼の教えです。

若かりし頃ビビリで卑屈な性格だったインコ氏ですが、長い14年のインコ生活で周りの環境とともに性格も変わっていきました。

晩年は慎重かつ大胆という感じで、危機察知能力と好奇心のどちらも持ち合わせていた感じ。もしかしたらそのおかげで死ぬリスクを回避しながら生き生きと暮らすことができたのかもしれないです。意外とさみしがりなところもあって豊かなキャラでした。人間味があるというか。

あ、そうそう、インコを焼き鳥くらいにしか考えてなかったもや旦とも仲良くなりましたよ。

インコに学ぶなんて思いもしなかったけど、生きることを楽しむこと、ストレスから解放されて自分らしく生きること、生きる気力を持ち続けることが長寿の秘訣なんだなと。

だてに14年生きてないですよね。

 

インコがいなければアフィはしていなかったかも

このインコたちを飼わなければ私はアフィリエイトをしていなかったかもしれません。

全く別業界の勉強をして資格までとりましたが結局その業界から身を引き、ウェブの世界に行くことにしました。

でもウェブに関する知識、HTMLやGIF、Photoshopなどの知識はそもそもインコのブログを書き、ブログのデザインいじるためにHTMLを勉強したことが大きかったです。いま思い出しました。私のウェブ知識の基盤を作ったのはインコですね。

人生に無駄なことはひとつもなくて、全部繋がってるんだなあと思います。

たかがインコ されどインコ。
私が大学まで目指した業界での思い出は彼が最後でした。死ぬときに私が若気の至りでサザナミインコのデコちゃんから奪ったものも彼にお願いして一緒に連れてってもらったので、気になっていたことはすべて火葬されて全て真っ白な骨になりました。清々しい気持ちです。

インコ氏、14年間お疲れ様、ありがとう!
そしてバイビー!また会おう。

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この記事を書いた人

夫婦でアフィリエイトを実践する「もやし家」の嫁。
トータルの稼ぎとしては旦那(もや旦)と競っているが、この家の財布と実権を握っているため、もや旦は逆らえない。もや嫁の夢は、アフィリエイターとして成功して、もや旦の実家である千葉の館山に電源カフェを作ること。アフィリのメルマガやってました(今はお休み中)

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